ボッティチェリの名作「春(LA PRIMAVERA=ラ・プリマヴェーラ)」の謎に挑戦するサイトです。

(3)《春》に関係する「死」とは(上)

書斎の聖アウグスティヌス
《書斎の聖アウグスティヌス》

 

パラスとケンタウロス
《パラスとケンタウロス》

 

ヴィーナス(ウェヌス)の誕生
《ヴィーナスの誕生》

■《春》が描かれた次期はいつか

《春》は「結婚」をテーマにして描かれた絵なのか、「死」をテーマにして描かれた絵なのか。その謎を解くために、まずこの絵がいつ描かれたものであるかを検証してみたいと思います。

《春》が描かれた時期にはいくつかの説があります。ボッティチェリは1481年から1482年の間ローマに滞在しており、このローマ滞在の前か、後か、ということがひとつの大きな分かれ目となっています。

最近の研究者として比較的有名なロナルド・ライトボーン氏の『ボッティチェリ』では、1482〜83年頃となっています。つまり「ローマ滞在後」という立場です。前項で紹介した『NHK世界美術館紀行3 ウフィツィ美術館ほか』 (佐々木英也氏監修)も1482年頃を支持しています。

これに対して、ボッティチェリの日本における代表的な研究者として知られる矢代幸雄氏は「ローマ滞在前」派です。『ヴィーナスの誕生・視覚文化への招待』の著者である岡田温司氏も、「1470年代末」との見解を示しています。


ロナルド・ライトボーン氏の著書には、「ローマ滞在後」説の登場に関する経緯がこのように紹介されています。《春》は、16世紀初めにはロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(通称ロレンツィーノ)のカステッロの別荘にありました。そこで、H.ホーンは《春》が描かれたのは、この別荘が彼と弟のために購入された1477年の直後であるという説を唱えました。

しかし近年、ロレンツィーノ兄弟の財産目録により《春》は彼らの邸宅のために描かれたものであることが明らかになりました。そして《春》が描かれた理由として、1482年5月のロレンツィーノの結婚が関連づけられるようになった、とのことです。

ところで、岡田温司氏の著書には《春》と《ヴィーナスの誕生》の注文と来歴に関する事実関係が下記のように整理されています。

(1)《ヴィーナスの誕生》の注文主については、確実な証拠はない。
(2)他方、《春》は《パラスとアテナ
(※筆者注:「パラスとケンタウロス」のことだと思われる)》とともに、メディチ家の傍系であるピエルフランチェスコがすでに1499年の時点で、ラルガ通りのその館に所有していた。
(3)それゆえ、《ヴィーナスの誕生》と《春》とがもともと同じ注文主のために、一種の対幅のようなものとして描かれたという確証はどこにもない。
(4)とはいえ、二作品とも、直径にせよ傍系にせよ、メディチ家との関係がきわめて強いのは事実で、十六世紀の前半にはすでに、カステッロの別荘で並んで置かれていたことが、ヴァザーリの証言から導き出される。

(『ヴィーナスの誕生・視覚文化への招待』みすず書房)

つまり、ロナルド・ライトボーン氏の著書では、《春》は「彼らの邸宅のために描かれたものである」とされていますが、正確には「彼らの邸宅に飾られていた」ことが事実であり、その注文主、注文理由については「実は何もわからない」ようなのです。

しかも、ロナルド・ライトボーン氏の著書にも、「H.ホーンによってこの作品がロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコのために描かれたことが指摘される以前に、カステッロの別荘に関する事情や歴史についての先入観をもたないでこの絵を見ることができた最後の学者であるH.ウルマンは、これをボッティチェリがローマに発つ直前に描かれた作品とみなした。」という記述があります。

つまり、所有者や保管場所に関する様々な情報を除外して推定された《春》の制作時期は、ローマ滞在前の1470年代末であったようなのです。


■様式から推測する制作時期


決定的な根拠がない以上、《春》の制作時期を推測する手がかりとして有効な情報のひとつに、ボッティチェリの他の作品との様式の比較が挙げられます。

「ローマ滞在後」を主張するライトボーン氏は、自著の中でこのように述べています


サン・マルティーノ病院の《受胎告知》、システィーナ礼拝堂のフレスコ画、ワシントンの《東方三博士の礼拝》には様式的に《プリマヴェーラ》にきわめて近い要素が見出される。(中略)《モーセの試練》のなかのエテロの娘たちと三美神の類似性についてはしばしば指摘されてきた。(中略)その様式は洗練されて優雅である。(中略)これらはいずれも《書斎の聖アウグスティヌス》の硬質な明晰さとはもはやはっきりと異なる精妙な絵画的処理を示している。
(中略)
これほどまでに考え抜かれ完璧に仕上げられた作品が、1480年前後より前に描かれたとはとても考えられず、様式的に見て1482-83年頃に描かれたと見てはならない理由はまったくない。
(『ボッティチェリ』西村書店)

「ローマ滞在前」の立場を取る矢代幸雄氏は、著書『サンドロ・ボッティチェルリ』の中で、「美しきシモネッタ」の解説にからめて、間接的に《春》の制作時期に関して言及しています。

制作の仕方から見てこの絵(※筆者注:丸紅所有の「美しきシモネッタ」:現在日本に唯一あるボッティチェリ作品)『プリマヴェーラ』からそう遠くない時期に描かれたようである。(中略)その時期を私は1476年のメディチ家の騎芸競技会からニ、三年後と考える。

このほか、多くの専門家が様式の比較をもとに様々な可能性についての所見を提示しています。要するに、様式から《春》の制作時期を推測すると、ローマ滞在の前であれ後であれ、いずれも「あり得なくはない」ということなのでしょう。


■結婚記念説の疑問

「ローマ滞在後」説を主張するライトボーン氏は、《春》と1482年のロレンツィーノの結婚との結びつきをその根拠のひとつとして説明しています。しかし、ライトボーン氏の《春》が結婚を
記念して描かれたという説については疑問があります。

ライトボーン氏の著書には、1481年8月24日にロレンツィーノが「花嫁と面識を持った」とあります。そして当初1482年5月に行われる予定であった結婚式は、3月25日にロレンツォ・イル・マニフィコの母親が亡くなったため、延期されて7月19日に行われたそうです。

ボッティチェリは1482年3月25日までにシスティーナ礼拝堂の壁画を仕上げることになっていました。《春》がロレンツィーノの結婚を記念して依頼されたとして、ボッティチェリが作業に取りかかることが出来たのは、1482年4月以降です。

《春》のような大作が4月から7月までの2〜3ヶ月で完成するとは思えませんので、完成は結婚式をはるかに過ぎた頃ということになります。完成の年が結婚式の行われた1482年と限定されず、82年〜83年頃と余裕を持たせてあるのは、そのことを考慮した結果であると推測出来ます。

ライトボーン氏は、《春》が「花咲く庭園で5月を祝っているのは、結婚式がとり行われることになっていた時期を暗示している」としていますが、実際に式が行われたのは7月です。もともと5月に向けて制作が進められていたのならいざ知らず、ボッティチェリが本格的に作品制作にとりかかれた時期には、5月の式の延期は既に決まっていたと思われます。

7月に行われた結婚式を祝う絵が、完成したのはそのずいぶん後で、しかもそこに描かれてある季節が、実際の式のあった7月ではなく、予定してた5月というのは、何とも不自然に思えます。

というわけで、何とも説得力が感じられないライトボーン氏の説から離れて、次回はとりあえず独自の考察を行ってみることにします。



●この章の主な参考文献・参考サイト
『サンドロ・ボッティチェルリ』矢代幸雄 岩波書店 1977.7
『ヴィーナスの誕生 視覚文化への招待』岡田温司 みすず書房 2006.4

『ボッティチェリ』ロナルド・ライトボーン 西村書店 1996.11
『NHK世界美術館紀行3 ウフィツィ美術館ほか』 日本放送出版協会 2005.6



※2008.11.01/2008.11.03

 
 
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