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解説 |
出典/参考文献 |
アンジェロ・ポリツィアーノ
Angelo Poliziano
1454-1494 |
本名アンジェロ・アンブロジーニ 通称アンジェロ・ダ・モンテプルチアーノ。イタリア・ルネサンスの人文主義者で詩人としても知られる。メディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物の一人。ボッティチェリの神話画における難解な古典的暗喩やモチーフのいくつかを示唆した博識な人文主義者。
メディチ家当主ロレンツォに詩作を教え、長男ピエロの家庭教師になった。パッツィ家の陰謀の際に、ロレンツォを逃して命を救ったのはポリツィアーノだという。語学に堪能で、20歳にしてホメロスの『イーリアス』をラテン語に訳す。また、詩人としても著名で、ボッティチェッリの絵画作品『春』などはポリツィアーノの詩に構想を得ているともいわれる。(H)
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Wikipedia
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アンドレア・デル・ヴェロッキオ
Andrea del Verrocchio
1435-1488 |
フィレンツェに工房を構えた彫刻家・画家・建築家。リッピ以降、直接ボッティチェリに大きな影響を与えた画家の一人。レオナルドの師であったが、若い弟子が描いた天使(キリストの洗礼※)の見事さに驚愕し、その後筆を折ったと伝えられている。ボッティチェリもヴェロッキオ工房にはよく出入りしていたらしい。
※ウフィツィ美術館にあるこの絵の左側の天使を指している。なお、右側の天使がボッティチェリの手による、という説もある。(Y)
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Wikipedia
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アンドレア・デル・カスターニョ
Andrea del Castagno
1419?−1457 |
ルネサンス初期のフィレンツェの画家。強烈な写実主義で知られ「首吊り描きのアンドレア」と呼ばれた。1440年のメディチ家コジモに対する謀反で、逆さ吊りになった反逆者たちの姿をリアルに描いたのがその理由。ボッティチェリがパッツィ事件の後、絞首刑のフレスコ画を描いた際(彼の絵が)強い影響を与える。壁画は1494年に取り壊されたが、1480年に描いたオニサンティ聖堂の「書斎の聖アウグスティヌス」にはカスターニョの影響が色濃く残っている。(Y)
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参考文献 矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』
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アントニオ・ポライウォーロ
Antonio Pollaiolo
1432-1498 |
ポライウォーロ兄弟の兄。弟ピエロと共にフィレンツェに工房を構えた。金工家・画家・彫刻家。リッピ以降、直接ボッティチェリに大きな影響を与えた画家の一人。人体解剖を手掛けた最初の芸術家といわれている。ポライウォーロの描いた「受胎告知(ベルリン国立美術館)」には金唐革の壁面装飾も見られる。(Y)
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参照 日本経済新聞「サンデー日経」98年7月5日付 |
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ
Simonetta Cattaneo Vespucci
1453-1476 |
シモネッタはポルトヴェーネレ(ヴィナスの港)に生を享け(それゆえ彼女には美の女神のイメージがつきまとう)、1469年にマルコ・ヴェスプッチの妻となりフィレンツェに移り住んだ。1475年のジョストラではジュリアーノ・デ・メディチに優勝者の冠を授け、2人のロマンスは語り種となるが、その直後病に倒れ、翌年肺病のために夭折する。メディチ・サークルのマドンナ的存在で、ボッティチェリの永遠の女性だった。「ヴィナスの誕生」の女神をはじめとして、ボッティチェリの描く女性には、常にシモネッタのイメージが重なる。日本に唯一あるボッティチェリの作品(丸紅蔵)は、彼女の肖像画だといわれている。(Y)
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ジュリアーノ・デ・メディチ
Giuliano de' Medici
1453-1478 |
ロレンツォ・イル・マニフィコの実弟。パッツィ家の陰謀事件に巻き込まれ、僅か24(または25)歳で命を落とす。奇しくも、彼の愛人として知られるシモネッタ・ヴェスプッチの命日(4月26日)から丁度2年後のことであった。ボッティチェリとは特に親しかったと考えられており、画家は彼の肖像画を少なくとも3点描いている(なぜかロレンツォの肖像画は描いていない、「マギの礼拝」中の人物像を除く)。(Y)
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ジョルジョ・ヴァザーリ
Giorgio Vasari
1511-1574 |
イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年第一版、1568年第二版)の著者。列伝には、芸術家133人(第二版では30人を追加)の作品と生涯が記されている。ウッフィッツィ宮殿(美術館)およびヴァザーリの回廊(ウフィッツィ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊)の設計者としても知られる。レオナルドとミケランジェロのコンペで有名な、ヴェッキオ宮殿五百人広間の現在の壁画「シエナ攻防戦」も、2人の巨匠の未完成の壁画の上に彼が描いた作品である。(Y)
彼の「ボッティチェリ伝」には「もう1枚のヴィーナスは、三美神が彼女を花々飾っているもので、プリマヴェーラ表している(un altra Venere che le grazie la fioriscono, dinotando la Premavera)」と書き残した文章があり、「春(=プリマヴェーラ)」の題名はこの一節に由来するという説がある。(H)
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参照:
Wikipedia、
『名画への旅 第6巻 初期ルネサンス 2』 |
ジロラモ・サヴォナローラ
Girolamo Savonarola
1452−1498 |
ドミニコ会の修道士。1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に転任するやいなや、説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え市民を感激させた。信奉者は次第に増え、ボッティチェリもその一人だったといわれる。1497年および翌年に行った「虚栄の焼却」では、ボッティチェリの作品も少なからず犠牲になった。しかし市民生活は次第に殺伐としたものとなり、彼の厳格な姿勢に反対派の不満も高まり、ついには1498年絞首刑ののち火刑に処された。(Y)
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Wikipedia |
ピエロ・ポライウォーロ
Piero Pollaiolo
1441-1496 |
ポライウォーロ兄弟の弟。兄アントニオと共にフィレンツェに工房を構えた。画家。アンドレア・デル・カスターニョの弟子。ボッティチェリのデビュー作「フォルテッツァ(剛毅)」は、フィレンツェの商業裁判所のホールを飾る7枚の美徳の寓意像のうちの1枚で、元々ピエロ・ポライウォーロに注文されていたのだが、彼が契約どおりに作品を仕上げられなかったことから、ボッティチェリにお鉢が回ってきた。25歳だったボッティチェリは、この仕事を僅か2ヶ月で仕上げ、鮮烈なデビューを果たしたのである。(Y)
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フィオレッタ・ゴリーニ
1478没 |
ジュリアーの愛人は、若くして亡くなったシモネッタ・ヴェスプッチが有名であるが、ほかに、アントーニオ・ゴリーニの娘と思われるフィオレッタも愛人であると言われ、子供ももうけている。その子である、ジューリオ・デ・メディチは、後にクレメンス7世となった。フィオレッタも若死したと言われている。(H)
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Wikipedia
※没年は『図説ボッティチェリの都フィレンツェ』佐藤 幸三 |
フラ・アンジェリコ
Fra Angelico
1387/1400-1455 |
本名グイード・ディ・ピエトロ。フィリッポ・リッピとともに15世紀前半のフィレンツェを代表する画僧。アンジェリコ(天使のような)という通称のとおり、受胎告知の画家として名高い。フィレンツェの事実上の支配者であったコジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)は、リッピとアンジェリコをお抱え画家とした。ボッティチェリも自身の受胎告知を描く際、アンジェリコの作品を研究したに違いない。(Y)
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Wikipedia |
フラ・フィリッポ・リッピ
Fra Filippo Lippi
1406-1469 |
クアトロチェント(15世紀)前半のフィレンツェ派を代表する画家、画僧。修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。2人の間に息子フィリピーノが生まれたことで問題となり、リッピは告発されて修道院に出入り禁止となった。しかし、芸術家に援助を惜しまなかったコジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)の取り成しにより、教皇から正式に還俗を許され、正式の夫婦となった。ボッティチェリの師匠。ボッティチェリは後にフィリピーノの師となり面倒を見ている。(Y)
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Wikipedia |
マルシリオ・フィチーノ
Marsilio Ficino
1433-1499 |
ルネサンス期の人文主義者。メディチ家の保護を受け、プラトン全集を翻訳した。コジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)に才能を見出されて、プラトン・アカデミーの中心人物となり、同サークルの活動により、ピコ・デ・ミランドラ、アンジェロ・ポリツィアーノらに直接影響を与えた。ロレンツィーノの教師でもあり、フィチーノが彼に送った書簡を「プリマヴェーラ」と結びつける研究者(E・ゴンブリッチ)もいる。(Y)
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Wikipedia |
ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni
1475-1564 |
フィレンツェ市庁舎(ヴェッキオ宮)前に設置されたダビデ像(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)は誰もが知る彼の傑作である。ボッティチェリはレオナルドらと共に、ダビデ像の設置場所審議会の委員に名を連ねている。ヴェッキオ宮といえば、五百人広間におけるレオナルドとのコンペティション(1504年)は、2人がライバル対決した有名な話だが、レオナルドの試した技法がまたしても失敗に終わり、コンペは不成立。2人はフィレンツェを後にしている。(Y)
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矢代幸雄
Yashiro Yukio
1890−1975
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「芸術鑑賞において、権威というものは存在しない。私の願いは、専門家の手による指導から芸術を解放し、再び人間の素朴な希求に返すことにある。私はボッティチェルリを愛し、彼について研究した。それ以上でも以下でもない。私は本書が純粋に学問的な頭脳の持主よりもむしろ、美を愛する点で趣味性向を同じくする人々に届くことを願っている。」大著サンドロ・ボッティチェルリ第1版の冒頭、このように述べた矢代は、本文中「単純で直感的な心の持主がボッティチェルリについて書いていないのは残念なことである。」と予言めいた言葉を残している。(Y)
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矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』より引用
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ラファエロ・サンツィオ
Raffaello Sanzio
1483-1520 |
夭折の画家ラファエロとボッティチェリの関係を示すような話は、不思議なことに何も残されていない。ラファエロがフィレンツェに拠点を移した1504年、ボッティチェリは既に制作を終えており、2人の人生はタッチの差でクロスしなかったのかもしれない(ボッティチェリは1510年に他界)。いずれも「マドンナ(聖母)の画家」として知られ、有名な三美神を描いているが、その様式に大きな差があるのも、時代が移り変わるタイミングと無関係ではあるまい。(Y)
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レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci
1452-1519 |
「ちょうどわれわれのボッティチェルリが、そんな研究は無益である、さまざまな色を染ませたスポンジを壁に投げつけさえすれば、壁の上に染みが残ってそこにきれいな風景が見られるのだから、と言ったように。」絵画論におけるこのレオナルドの言及を盾に取って、ボッティチェルリ学者の多くは、あたかも彼がレオナルドによって評価された同時代の唯一の画家であるかのように扱おうとしている。こうした解釈は正しくない。(Y)
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矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』より引用加筆 |
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici
1463-1503 |
ロレンツォ・イル・マニフィコの14歳年下の従兄弟(通称ロレンツィーノ)。「プリマヴェーラ」と「ヴィナスの誕生」が当初(ウッフィッツィ美術館に入る前)彼が所有したカステッロのメディチ家別荘に飾られていたため、「プリマヴェーラ」は別荘購入を記念して描かれたと考えられていた。その後見つかった財産目録で、カステッロ以前にフィレンツェ市内の邸に「プリマヴェーラ」があったことが判明し、別荘購入に替わる新たな制作動機として、1482年7月のロレンツィーノの結婚が指摘されるようになった。(Y)
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ロレンツォ・ディ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)
Lorenzo de' Medici (il Magnifico)
1449-1492 |
ルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。
メディチ家の他のロレンツォと区別する意味もあって、ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なロレンツォ)と呼ばれる。「ロレンツォ豪華王」と訳されることもあるが、王ではないので適切でない。
プラトン・アカデミーを自ら主宰する一方で、芸術家たちのパトロンとして知られる。ボッティチェリとは親交が深く、「プリマヴェーラ」の委嘱者である可能性もある。(Y)
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