ボッティチェリの名作「春(LA PRIMAVERA=ラ・プリマヴェーラ)」の謎に挑戦するサイトです。

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1. 人物関連
キーワード 解説 出典/参考文献
アンジェロ・ポリツィアーノ
Angelo Poliziano
1454-1494
本名アンジェロ・アンブロジーニ 通称アンジェロ・ダ・モンテプルチアーノ。イタリア・ルネサンスの人文主義者で詩人としても知られる。メディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物の一人。ボッティチェリの神話画における難解な古典的暗喩やモチーフのいくつかを示唆した博識な人文主義者。
メディチ家当主ロレンツォに詩作を教え、長男ピエロの家庭教師になった。パッツィ家の陰謀の際に、ロレンツォを逃して命を救ったのはポリツィアーノだという。語学に堪能で、20歳にしてホメロスの『イーリアス』をラテン語に訳す。また、詩人としても著名で、ボッティチェッリの絵画作品『春』などはポリツィアーノの詩に構想を得ているともいわれる。(H)


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アンドレア・デル・ヴェロッキオ
Andrea del Verrocchio
1435-1488
フィレンツェに工房を構えた彫刻家・画家・建築家。リッピ以降、直接ボッティチェリに大きな影響を与えた画家の一人。レオナルドの師であったが、若い弟子が描いた天使(キリストの洗礼※)の見事さに驚愕し、その後筆を折ったと伝えられている。ボッティチェリもヴェロッキオ工房にはよく出入りしていたらしい。
※ウフィツィ美術館にあるこの絵の左側の天使を指している。なお、右側の天使がボッティチェリの手による、という説もある。(Y)

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アンドレア・デル・カスターニョ
Andrea del Castagno
1419?−1457
ルネサンス初期のフィレンツェの画家。強烈な写実主義で知られ「首吊り描きのアンドレア」と呼ばれた。1440年のメディチ家コジモに対する謀反で、逆さ吊りになった反逆者たちの姿をリアルに描いたのがその理由。ボッティチェリがパッツィ事件の後、絞首刑のフレスコ画を描いた際(彼の絵が)強い影響を与える。壁画は1494年に取り壊されたが、1480年に描いたオニサンティ聖堂の「書斎の聖アウグスティヌス」にはカスターニョの影響が色濃く残っている。(Y)

参考文献 矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』
アントニオ・ポライウォーロ
Antonio Pollaiolo
1432-1498
ポライウォーロ兄弟の兄。弟ピエロと共にフィレンツェに工房を構えた。金工家・画家・彫刻家。リッピ以降、直接ボッティチェリに大きな影響を与えた画家の一人。人体解剖を手掛けた最初の芸術家といわれている。ポライウォーロの描いた「受胎告知(ベルリン国立美術館)」には金唐革の壁面装飾も見られる。(Y)

参照 日本経済新聞「サンデー日経」98年7月5日付
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ
Simonetta Cattaneo Vespucci
1453-1476
シモネッタはポルトヴェーネレ(ヴィナスの港)に生を享け(それゆえ彼女には美の女神のイメージがつきまとう)、1469年にマルコ・ヴェスプッチの妻となりフィレンツェに移り住んだ。1475年のジョストラではジュリアーノ・デ・メディチに優勝者の冠を授け、2人のロマンスは語り種となるが、その直後病に倒れ、翌年肺病のために夭折する。メディチ・サークルのマドンナ的存在で、ボッティチェリの永遠の女性だった。「ヴィナスの誕生」の女神をはじめとして、ボッティチェリの描く女性には、常にシモネッタのイメージが重なる。日本に唯一あるボッティチェリの作品(丸紅蔵)は、彼女の肖像画だといわれている。(Y)


ジュリアーノ・デ・メディチ
Giuliano de' Medici
1453-1478
ロレンツォ・イル・マニフィコの実弟。パッツィ家の陰謀事件に巻き込まれ、僅か24(または25)歳で命を落とす。奇しくも、彼の愛人として知られるシモネッタ・ヴェスプッチの命日(4月26日)から丁度2年後のことであった。ボッティチェリとは特に親しかったと考えられており、画家は彼の肖像画を少なくとも3点描いている(なぜかロレンツォの肖像画は描いていない、「マギの礼拝」中の人物像を除く)。(Y)


ジョルジョ・ヴァザーリ
Giorgio Vasari
1511-1574
イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年第一版、1568年第二版)の著者。列伝には、芸術家133人(第二版では30人を追加)の作品と生涯が記されている。ウッフィッツィ宮殿(美術館)およびヴァザーリの回廊(ウフィッツィ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊)の設計者としても知られる。レオナルドとミケランジェロのコンペで有名な、ヴェッキオ宮殿五百人広間の現在の壁画「シエナ攻防戦」も、2人の巨匠の未完成の壁画の上に彼が描いた作品である。(Y)

彼の「ボッティチェリ伝」には「もう1枚のヴィーナスは、三美神が彼女を花々飾っているもので、プリマヴェーラ表している(un altra Venere che le grazie la fioriscono, dinotando la Premavera)」と書き残した文章があり、「春(=プリマヴェーラ)」の題名はこの一節に由来するという説がある。(H)

参照:
Wikipedia、
『名画への旅 第6巻 初期ルネサンス 2』 
ジロラモ・サヴォナローラ
Girolamo Savonarola
1452−1498
ドミニコ会の修道士。1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に転任するやいなや、説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え市民を感激させた。信奉者は次第に増え、ボッティチェリもその一人だったといわれる。1497年および翌年に行った「虚栄の焼却」では、ボッティチェリの作品も少なからず犠牲になった。しかし市民生活は次第に殺伐としたものとなり、彼の厳格な姿勢に反対派の不満も高まり、ついには1498年絞首刑ののち火刑に処された。(Y)

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ピエロ・ポライウォーロ
Piero Pollaiolo
1441-1496
ポライウォーロ兄弟の弟。兄アントニオと共にフィレンツェに工房を構えた。画家。アンドレア・デル・カスターニョの弟子。ボッティチェリのデビュー作「フォルテッツァ(剛毅)」は、フィレンツェの商業裁判所のホールを飾る7枚の美徳の寓意像のうちの1枚で、元々ピエロ・ポライウォーロに注文されていたのだが、彼が契約どおりに作品を仕上げられなかったことから、ボッティチェリにお鉢が回ってきた。25歳だったボッティチェリは、この仕事を僅か2ヶ月で仕上げ、鮮烈なデビューを果たしたのである。(Y)


フィオレッタ・ゴリーニ
1478没
ジュリアーの愛人は、若くして亡くなったシモネッタ・ヴェスプッチが有名であるが、ほかに、アントーニオ・ゴリーニの娘と思われるフィオレッタも愛人であると言われ、子供ももうけている。その子である、ジューリオ・デ・メディチは、後にクレメンス7世となった。フィオレッタも若死したと言われている。(H)

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※没年は『図説ボッティチェリの都フィレンツェ』佐藤 幸三
フラ・アンジェリコ
Fra Angelico
1387/1400-1455
本名グイード・ディ・ピエトロ。フィリッポ・リッピとともに15世紀前半のフィレンツェを代表する画僧。アンジェリコ(天使のような)という通称のとおり、受胎告知の画家として名高い。フィレンツェの事実上の支配者であったコジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)は、リッピとアンジェリコをお抱え画家とした。ボッティチェリも自身の受胎告知を描く際、アンジェリコの作品を研究したに違いない。(Y)

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フラ・フィリッポ・リッピ
Fra Filippo Lippi
1406-1469
クアトロチェント(15世紀)前半のフィレンツェ派を代表する画家、画僧。修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。2人の間に息子フィリピーノが生まれたことで問題となり、リッピは告発されて修道院に出入り禁止となった。しかし、芸術家に援助を惜しまなかったコジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)の取り成しにより、教皇から正式に還俗を許され、正式の夫婦となった。ボッティチェリの師匠。ボッティチェリは後にフィリピーノの師となり面倒を見ている。(Y)

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マルシリオ・フィチーノ
Marsilio Ficino
1433-1499
ルネサンス期の人文主義者。メディチ家の保護を受け、プラトン全集を翻訳した。コジモ・デ・メディチ(イル・マニフィコの祖父)に才能を見出されて、プラトン・アカデミーの中心人物となり、同サークルの活動により、ピコ・デ・ミランドラ、アンジェロ・ポリツィアーノらに直接影響を与えた。ロレンツィーノの教師でもあり、フィチーノが彼に送った書簡を「プリマヴェーラ」と結びつける研究者(E・ゴンブリッチ)もいる。(Y)

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ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni
1475-1564
フィレンツェ市庁舎(ヴェッキオ宮)前に設置されたダビデ像(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)は誰もが知る彼の傑作である。ボッティチェリはレオナルドらと共に、ダビデ像の設置場所審議会の委員に名を連ねている。ヴェッキオ宮といえば、五百人広間におけるレオナルドとのコンペティション(1504年)は、2人がライバル対決した有名な話だが、レオナルドの試した技法がまたしても失敗に終わり、コンペは不成立。2人はフィレンツェを後にしている。(Y)


矢代幸雄
Yashiro Yukio
1890−1975
「芸術鑑賞において、権威というものは存在しない。私の願いは、専門家の手による指導から芸術を解放し、再び人間の素朴な希求に返すことにある。私はボッティチェルリを愛し、彼について研究した。それ以上でも以下でもない。私は本書が純粋に学問的な頭脳の持主よりもむしろ、美を愛する点で趣味性向を同じくする人々に届くことを願っている。」大著サンドロ・ボッティチェルリ第1版の冒頭、このように述べた矢代は、本文中「単純で直感的な心の持主がボッティチェルリについて書いていないのは残念なことである。」と予言めいた言葉を残している。(Y)

矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』より引用
ラファエロ・サンツィオ
Raffaello Sanzio
1483-1520
夭折の画家ラファエロとボッティチェリの関係を示すような話は、不思議なことに何も残されていない。ラファエロがフィレンツェに拠点を移した1504年、ボッティチェリは既に制作を終えており、2人の人生はタッチの差でクロスしなかったのかもしれない(ボッティチェリは1510年に他界)。いずれも「マドンナ(聖母)の画家」として知られ、有名な三美神を描いているが、その様式に大きな差があるのも、時代が移り変わるタイミングと無関係ではあるまい。(Y)


レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci
1452-1519
「ちょうどわれわれのボッティチェルリが、そんな研究は無益である、さまざまな色を染ませたスポンジを壁に投げつけさえすれば、壁の上に染みが残ってそこにきれいな風景が見られるのだから、と言ったように。」絵画論におけるこのレオナルドの言及を盾に取って、ボッティチェルリ学者の多くは、あたかも彼がレオナルドによって評価された同時代の唯一の画家であるかのように扱おうとしている。こうした解釈は正しくない。(Y)

矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』より引用加筆
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici
1463-1503
ロレンツォ・イル・マニフィコの14歳年下の従兄弟(通称ロレンツィーノ)。「プリマヴェーラ」と「ヴィナスの誕生」が当初(ウッフィッツィ美術館に入る前)彼が所有したカステッロのメディチ家別荘に飾られていたため、「プリマヴェーラ」は別荘購入を記念して描かれたと考えられていた。その後見つかった財産目録で、カステッロ以前にフィレンツェ市内の邸に「プリマヴェーラ」があったことが判明し、別荘購入に替わる新たな制作動機として、1482年7月のロレンツィーノの結婚が指摘されるようになった。(Y)


ロレンツォ・ディ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)
Lorenzo de' Medici (il Magnifico)
1449-1492
ルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。
メディチ家の他のロレンツォと区別する意味もあって、ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なロレンツォ)と呼ばれる。「ロレンツォ豪華王」と訳されることもあるが、王ではないので適切でない。
プラトン・アカデミーを自ら主宰する一方で、芸術家たちのパトロンとして知られる。ボッティチェリとは親交が深く、「プリマヴェーラ」の委嘱者である可能性もある。(Y)

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2. 美術・芸術関連
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解説
出典/参考文献
ウッフィッツィ(ウフィツィ)美術館
Galleria degli Uffizi
イタリア(フィレンツェ)ルネサンスのメッカ。近代式の美術館としてヨーロッパ最古の1つ。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大。Uffiziは英単語officeの語源でもある。ルネサンス期を代表する絵画に、レオナルドの「受胎告知」「東方三博士の礼拝(未完)」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの「ひわの聖母」等があり、ボッティチェリは「プリマヴェーラ」「ヴィナスの誕生」の他にも「東方三博士の礼拝」「マニフィカトの聖母」「柘榴の聖母」「パラスとケンタウロス」「誹謗(ラ・カルンニア)」といった代表作が収蔵されている。設計者は「画列伝」のジョルジョ・ヴァザーリで、彼の名を取ったヴァザーリの回廊が、ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)の2階部分を経由してアルノ川対岸のピッティ宮殿へとつながっている。1993年、美術館近くで自動車爆弾による爆発があり、通行人ら5人が死亡、一部の美術品も被害を受けた。この事件以降「プリマヴェーラ」と「ヴィナスの誕生」は防弾ガラスで守られることになった。(Y

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金唐革(きんからかわ) なめし革の上に特殊な塗料で金属箔を貼り、金型で文様をプレスしたうえに彩色したものである。そのルーツは500年程前のヨーロッパにさかのぼり、宮殿や寺院などの壁革として珍重されていた。
この皮革工芸の技法は今から200年余り前に途絶えてしまったが、徳力彦之助・康乃夫婦の50年に及ぶ研究の結果復元された。
徳力彦之助氏は金唐革の創始者がボッティチェリであるとの説を提唱している。(H)


ラファエル前派 ラファエル前派は、19世紀半ばにロイヤル・アカデミー付属美術学校の学生であったロセッティ、ハント、ミレイの3人の画家によって結成された。アカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱え、ラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範とした。
彼らの活動に加え、同時代の評論家ラスキンやペイターらの評価によって、ボッティチェリが再認識されたことは言うまでもない。(Y)

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ルネサンス(またはルネッサンス=文芸復興)
Renaissance
《再生の意》14世紀イタリアに興り、16世紀までに全欧州に展開した学問上・芸術上の革新運動。ギリシア・ローマの古典文化を復興し、教会中心の中世的世界観を離れ、現世の肯定、人間性の解放、個性の尊重を主張。その影響は政治・社会・宗教など多方面に及び、欧州近代文化の基礎となった。文芸復興。ルネッサンス。(H)

大辞泉 提供:JapanKnowledge
3. ギリシァ神話・ローマ神話関連(名称記載はギリシァ神話での名/ローマ名)
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解説
出典/参考文献
アプロディテ/ウェヌス(ヴィーナス)
性愛と多産の女神。ローマではウェヌスと同一視され、英語のヴィーナスとなった。(H) 『ギリシア神話物語事典』バーナード・エヴスリン
原書房
エロス/クピド(キューピッド)
根源的な愛情、とくに性愛に結びつくような愛情の神。キリスト教美術に見られる有翼の子供のイメージは、このエロスにちなみ、キューピー人形の原型として知られる英語キューピッドも同じ。
エロスを主人公とする物語として有名なものに、「エロスとプシュケの物語」がある。(H)
『ギリシア神話物語事典』バーナード・エヴスリン
原書房
カリテス/グラティアエ
女神アプロディテのお供をしているのが典雅の女神カリスたちで、カリテスはその複数形。ヘシオドスによれば、女神たちはエイリューメ女神とゼウスの間に生まれた。アグライアー(輝く女)、エウプロシュネー(喜び)、タレイア(花の盛り)という名前であると言われている。(H)
『ギリシア神話物語事典』バーナード・エヴスリン
原書房
クロリス/フローラ
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。日本語では長母音記号を省略してフロラとも呼ぶ。オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリス(クロリス)という名のギリシアのニュムペー(ニンフ)だった。しかし、風神ゼピュロスによってイタリアに連れて来られ、以後花の女神になったという。(H) Wikipedia
ゼピュロス/ファウォーニウス
ギリシャ神話におけるアネモイ(ギリシャ語で「風」の意味)は、東西南北の各方角を司る風の神。ゼピュロスは春と初夏のそよ風を運ぶ西風で、4人のアネモイの中で最も温和な神。春の訪れを告げる豊穣の風として知られる。
エロスとプシュケの物語では、ゼピュロスはエロスのためにプシュケをエロスの洞窟に送り届けていた。
ローマ神話においてゼピュロスに相当する神格は、植物と花々の支配者であるファウォーニウス(Favonius)であった。(H)
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プシュケ/
前8世紀頃のホメロスでは、死が訪れると同時に人間の魂から魂が抜け出す。psychology(心理学)のpsych-の部分はギリシャ語のプシュケ(psyche)に由来するのだが、このプシュケこそ、生命の終焉の瞬間に身体を離れ去る魂であった。肉体から遊離したプシュケは『オデュッセイア』第24歌によれば、「魂の運び手」というプシュコポンポスという異名を持つ神ヘルメスに導かれてハデスに入る。ハデスは冥界という場所を意味する。(H)
『ギリシア神話』西村賀子
中公新書
    プシューケー(古典ギリシア語)とは、ギリシア神話に登場する人間の娘の名で、この言葉はギリシア語では、元々、心・魂を意味する。英語では psyche(サイキ)という。
神となったプシューケーは、「愛」を支えるのは見ることでも確かめることでもなく、相手を信じる「心」である、と恋人たちにささやく役目を担うと言われる。また、試練の過程で人間として初めて生きながらに冥界の川を渡ったことから、その名は「魂」を指すことともなった。なお魂の象徴は蝶である(よって蝶もギリシア語でプシューケーという)ことから、美術作品ではしばしば背に蝶の羽を持つ姿で現される。(H)
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プリマヴェーラ
この《春》のタイトルとして引用されている存在でありながら、神話の登場人物としては限りなく無名である。詩人ポリツィアーノが書いた長編詩「ラ・ジォストゥラ」に「陽気な春の女神(プリマヴェーラ)も欠けていない」という表記で登場するが、神話の出典は不明。
プリマヴェーラ(Primavera)は、イタリア語で春の意。
(H)
  
ヘルメス/メリクリウス(マーキュリー)
神々の伝令にして冥府に死人の魂を導くプシュコポンポス(魂の案内者)である。また商業の神でもあり、変わったところでは泥棒の神でもある。ローマではメリクリウスで、これを英語にしたものがマーキュリー。
伝令神であることを示す杖ケーリュケイオンを持ち、翼のついたサンダルをはき、旅人の被るツバ広の帽子を被った青年の姿で想像されていた。(H)
『ギリシア神話物語事典』バーナード・エヴスリン
原書房
ホーラ/
季節の女神。ゼウスとテミスの間に生まれたエウノミアー(秩序)、ディーケー(正義)、エイレーネー(平和)の三柱の季節の女神。生まれたばかりのアプロディテに衣服をまとわせたのが、このホーラ女神たちであると言われる。(H)
『ギリシア神話物語事典』バーナード・エヴスリン
原書房
  季節の秩序を司る事から、植物や花の生長を守護する女神とされ、また人間社会の秩序をも司る。 それ故彼女達は、花を手にした優美な乙女の姿で表される。 Wikipedia
4. その他
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解説
出典/参考文献
ヴィーナスの領国(またはヴィーナスの王国) 詩人ポリツィアーノが書いた長編詩「ジュリアーノ・デ・メディチの馬上槍試合(ラ・ジョストラまたはラ・ジォストゥラ)のための八行連詩)」のなかにある詩。
「プリマヴェーラ」はこの詩から着想して描かれた、という説がある。
「《春》とよく似た「詩」の存在」にその関連部分を掲載(H)


オニサンティ聖堂
Basilica della Santissima Annunziata
ボルゴ・オニサンティ地区の教会で、ボッティチェリの墓所でもある。ヴェスプッチ邸からも近く、シモネッタもまたここに眠っている。1480年、パッツィ事件からまだ日も浅い頃、他ならぬヴェスプッチ家の依頼で、ボッティチェリはここに「書斎の聖アウグスティヌス」を描く。矢代幸雄に「ここでボッティチェルリは全く別の人間、かつてなく以後も二度とそうなることのない雄大で印象的な人間として現われる。」と言わしめた作品で、対となるギルランダイオの「書斎の聖ヒエロニムス」とともに、日本でも公開されている。(Y)


カステッロのメディチ家別荘
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチが1476〜78年頃(当時13〜15歳)に購入。ウッフィッツィ美術館に移される以前「プリマヴェーラ」と「ヴィナスの誕生」はここに飾られていた。1550年にヴァザーリが2枚の絵をここでで見たことを「画列伝」に記している。ちなみに、「プリマヴェーラ」と「ヴィナスの誕生」は1815年共にウッフィッツィ美術館に入ったが、1853年からはアカデミア美術館に移されている。しかし、その後のラファエル前派らによるボッティチェリの再評価を受け、1919年に再びウッフィッツィ美術館に戻された。(Y)

参考:『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待〜岡田温司著
システィーナ礼拝堂
Cappella Sistina
サン・ピエトロ大聖堂に隣接しヴァチカン宮殿内に建てられた礼拝堂。教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られる(近年では2005年に開催)。建物が完成した1481年から翌年にかけて、ボッティチェリは「癩者の治癒」「コラーとその一党の懲罰」「モーゼの生涯」の3壁画をここに描いている。1512年にはミケランジェロによる天井画「創世記」9面が完成。その後再びミケランジェロが手掛けた祭壇画「最後の審判」は、5年の歳月をかけて1541年に完成した。同じヴァチカン宮殿の署名の間で「アテナイの学堂(画面の中央のプラトンとアリストテレスのモデルが、レオナルドとミケランジェロだとして有名)」を描いていたラファエロも、ミケランジェロの天井画の仕事を覗き見したといわれている。(Y)

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ジョストラ(馬上槍試合)
Giostra
ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟がそれぞれ主役を務めた1469年と1475年のジョストラ(いずれもサンタ・クローチェ広場で開催)がよく知られている。1469年の大会はロレンツォの二十歳の誕生日とミラノ・ナポリ・ヴェネツィアとの同盟を記念して行われた。ロレンツォの標旗はヴェロッキオが描き、勇者が愛と献身を捧げる意中の女性にはルクレツィア・ドナーティが選ばれていた。1475年のジョストラでは、ボッティチェリがジュリアーノの標旗を描き、女性はもちろんシモネッタ・ヴェスプッチ。2人のロマンスを詠んだポリツィアーノの長編詩「ラ・ジョストラ」に着想を得て、ボッティチェリが「プリマヴェーラ」を制作したことは、誰もが認めるところである。(Y)

参考:『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待〜岡田温司
新プラトン主義(ネオ・プラトニズム) 新プラトン主義=ネオプラトニズム (Neoplatonism) は、プラトン(と後継者)の教説に類似する思想のことを指す。紀元3世紀ごろにプロティノスによって展開され、ルネサンス期にイタリアでも再び盛んになった。
なお、この「ネオプラトニズム」という言葉は、19世紀のシュライアーマッハー以降、文献学により、プラトン自身のオリジナルの教説と後世の追随者の思想とが区別して捉えられるようになって初めて生まれた造語であり、古代やルネサンスの人々がその思想を「ネオプラトニズム」と呼んでいたわけではないことは注意しなければならない。「新プラトン主義」と訳されることも多いが、原語の"neo-"が意味するニュアンスが消えてしまうため、ネオプラトニズムと呼ぶことが望ましい。(H)

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ダ・ヴィンチ・コード ルーブル美術館館長ジャック・ソニエールの暗殺に端を発するこの小説で、ソニエールは秘密結社シオン修道会の総長という別の顔を持つ。ここでは詳しくは書かないが、レオナルド・ダ・ヴィンチがかつてシオン修道会の総長を務めていたという設定になっている。そしてレオナルドの前の総長が他ならぬボッティチェリだと。ボッティチェリファンには寝耳に水の話で驚かされるが、それもその筈、ダン・ブラウンが小説中に事実であると書き記したこの部分は、実はフィクションだった。(Y)


パッツィ家(の陰謀)事件 事件は1478年4月26日、サンタ マリア デル フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)でのミサの際に起こった。ピサ大司教とフランチェスコ・デ・パッツィらがメディチ兄弟を襲撃、ジュリアーノを殺害する。ロレンツォは傷を負うがかろうじて難を逃れた。暗殺者らは市民にメディチ家への反乱を呼びかけるも失敗。捕らえられて即刻処刑された。パッツィ家関係者らへの報復は容赦の無いもので、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて死刑になった。ボッティチェリはメディチ家の依頼で、吊し首の光景をフレスコ画として市庁舎の壁に記録したが、ロレンツォの死後、1494年に取り壊された。(Y)

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パラッツォ・メディチ−リッカルディ
PALAZZO MEDICI-RICCARDI
1444年にメディチ家当主コジモ・デ・メディチが、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオに設計を依頼。1464年に完成。1469年にメディチ家当主となったロレンツォ・イル・マニフィコもここを住居としていた。したがってロレンツォが「プリマヴェーラ」の発注者だった場合、絵は制作当初、パラッツォ・メディチに飾られていた可能性がある。その後売却され、現在の所有者はリッカルディ家。(Y)


ハンニバル・レクター
Hannibal Lecter
1990年(羊たちの沈黙の後)、レクターはダンテ研究者のフェル博士になりすましフィレンツェに現れる。この時は峻厳をもって鳴る専門家連中を満足させるほどの深い知識を披露し、前任者の失踪(実際は博士が殺害した)により空席となっていた図書館の司書として迎えられる。この前任者の失踪事件を捜査していたリナルド・パッツィ刑事は彼を連続殺人鬼ハンニバルではないかと疑い単独で捜査を開始、しかしパッツィは逆にレクターにより、ヴェッキオ宮殿で先祖の例(パッツィ事件)に倣い殺害されてしまう。(Y)

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メディチ家 メディチ家(Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てるうえで大きな役割を果たしたことでも知られている。(H)

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