ボッティチェリの名作「春(LA PRIMAVERA=ラ・プリマヴェーラ)」の謎に挑戦するサイトです。

ボッティチェリ年表・年譜
サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli, 1444/1445年 - 1510年5月17日)
本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ (Alessandro di Mariano Filipepi) 、あるいはアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ(ヴァンニ(ジョヴァンニ)の息子マリアーノの息子アレッサンドロ)。日常の会話ではサンドロと呼ばれていた。

初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家。
フィリッポ・リッピの元で学び、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。
ボッティチェリという名は、兄が太っていたことからついた「小さな樽」という意味のあだ名であると言われる。 ボッティッチェリ、ボッティチェルリ、ボッティチェッリなどと表記されることもある。
ボッティチェリ年表
(ボッティチェリの年齢[]内は推定)
備考
1444年または
1445年
ルネサンス期のイタリアのフィレンツェに生まれる。父マリアーノは1394年〜95年頃に生まれ(当時約50歳)、フィレンツェで皮なめし業を営んでいた。
母ズメラルダは1405年〜05年頃生まれ(当時約40歳)。

1461〜67年 フラ・フィリッポ・リッピのもとに徒弟として入門。[17歳〜23歳]
1475年頃 《東方三博士の礼拝》(ウフィツィ美術館所蔵)
1475年 ジョストラ(馬上槍試合)で、主役のジュリアーノが使用した標旗に、ボッティチェリがミネルバとクピド(ギリシア神話ならパラスとエロス)を描く。ミネルバのモデルはシモネッタ・ヴェスプッチであったという説が有名。
1476年 4月26日 シモネッタ病死
1477年 ロレンツォ・ディ・ピエルフランシスコ・デ・メディチ(通称ロレンツィーノ)がカステッロの別荘を購入
1478年 4月26日 パッツィ事件でジュリアーノが死去
また、ジュリアーノの愛人フィオレッタ・ゴリーニが、ジュリアーノの子を出産、その後死去

1475〜78年頃
または1482年頃
《春(プリマヴェーラ)》(ウフィツィ美術館所蔵)
1480年 《書斎の聖アウグスティヌス》(オニサンティ聖堂)
1481〜82年頃 ローマ滞在(37〜38歳)

1481〜82年 《モーセの試練》(ローマ システィーナ礼拝堂)
1481〜82年 《反逆者たちの懲罰》(システィーナ礼拝堂)
1482年 ロレンツィーノ結婚
1482年 パラッツォ・デッラ・シニョリーアのフィレンツェ政府の新しい大広間にフレスコ画を描く仕事を委嘱された。
(1482年には最終的に完成されておらず、1485年まで支払いはなされなかった)

1482〜83年頃 《パラスとケンタウロス》
1483年 《サン・マルコ祭壇画》(ウフィツィ美術館所蔵)
《ヴィーナスとマルス》(右図)
《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語》(プラド美術館所蔵)
1483-85年 《マニフィカトの聖母》(ウフィツィ美術館所蔵)
1484〜85年頃 《聖母子と二人の聖ヨハネ(バルディ祭壇画)》(ベルリン国立絵画館)
1484〜86年頃 《ヴィーナス(ウェヌス)の誕生》(ウフィツィ美術館所蔵)
1487年 《ザクロの聖母》(ウフィツィ美術館所蔵)
1492年 ロレンツォ・ディ・メディチ死去
1499年 この年の財産目録により、《春》は制作当初ロレンツィーノのフィレンツェ市内の邸宅に、《パラスとケンタウロス》とともにあったことが判明。
1501年 《神秘の降誕》
1510年 5月17日 ボッティチェリ死去
1978年〜 《春》の修復が行われ、オリジナルの華麗な色彩がよみがえり、従来、煤(すす)に覆われてはっきり見えなかった多くの草花が、ヴィーナス(ウェヌス)の立つ地面に描き込まれているのが見えるようになった。